古事記を訪ねて~走水神社~ [歴史・史跡探訪]
今日は、前から気になっていた横須賀にある走水(はしりみず)神社に行ってきました。
ここは古事記にも出てくる場所で、ヤマトタケルノミコトと后オトタチバナヒメノミコトに
関係の深い神社です。二宮で吾妻神社に出会ってからずっと気になっていました。
やさしさあふれる場所でした。心を込めて精一杯、お参りしてきました。
神社説明書から創建について主な部分です。
走水の地名はすでに古事記(712年)や日本書紀(720年)の中に表れています。
大和朝廷時代に上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、この地方に古東海道が
通じておりました。走水神社の祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)とその后、弟橘媛命(オトタチ
バナヒメノミコト)の二柱です。神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録
や社宝が焼失してしまったのでわかりません。伝説では、景行天皇の即位40年(110年)東夷征討
の命を受けた大和武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり村民に「冠」を賜りましたので、冠を
石櫃に納めてその上に社殿を建て、大和武尊を祭ったことに始まると伝えています。
日本武尊が渡海の際、海上が荒れ、いまにも身が沈みそうになりました。海神の怒りであろうと考え
られた弟橘媛命は
~さねさしさがむのをぬにもゆるひの ほなかにたちてとひしきみはも~
の歌を残し日本武尊に代わって海に身を投じ風波を鎮めました。
弟橘姫尊はもと旗山崎に橘神社として祭られていましたが、その地が軍用地に買収されたため、
明治42年、この神社に祭られました。
歌について、もう少し詳しくウィキペディア(弟橘媛)より、
~さねさし 相武(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも~
~佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母~
「相模の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくださった貴方」という意味である。
相模の国造にだまされ、火攻めにあった時のことを言っている。『古事記』にのみ存在する歌である。
尊に対する感謝の気持ちがよく表れている。
尊の「吾妻はや」という言葉とあわせると、ふたりは固い絆で結ばれていたことがわかる。
{媛を忘れられない尊は、『日本書紀』によれば碓日嶺(うすひのみね。現在の碓氷峠)、『古事記』によれば神奈川県の足柄の坂本(足柄山)において、「吾妻はや」(我が妻よ)と嘆いた。日本の東部を「あずま」と呼ぶのは、この故事にちなむという。いわゆる地名起源説話である}
歌の訳についてもうひとつ、
≪あの相模国の人里離れた野原で、火に囲まれ、ぼうぼうと燃える炎の中で、わたしの名を呼んでくださったあなたですもの≫【古事記:梅原猛 学研M文庫134頁】
他にも訳があるようです。やさしい感じのするものがほとんどみたいです。
御本殿の横から丘に登る素敵な道がありました。
(写真はありませんが、御本殿の後ろに回ると水の神様カッパ様がお祀りされていました)
途中の展望スペースはとてもきれいな景色でした。
この道の先には・・・。
素敵なお社がありました。
諏訪神社 神明社 須賀神社です。素敵な場所です。
こころを込めてお参り。そして下山。
今日もこの場所にこれたことに感謝。
大和武尊さま、弟橘媛命さま、ありがとうございます。
このあとは観音崎付近を散歩
海とそらがとってもきれいで心地よかったです。
三浦半島は歴史がいっぱい詰まった場所です。
今日もこの場所に来れたことに感謝の一日でした。
(今日は、やっとこの場所に来れた、お会いできたという感じがして、清々しい気持ちになりました)
今日も、たくさんの人にやさしい光が届きますように。
~今日は長くなりましたが、お付き合いいただきありがとうございます。
走水神社へは、京急、馬堀海岸駅からバス観音崎行きで走水神社下車すぐです。~
ここは古事記にも出てくる場所で、ヤマトタケルノミコトと后オトタチバナヒメノミコトに
関係の深い神社です。二宮で吾妻神社に出会ってからずっと気になっていました。
やさしさあふれる場所でした。心を込めて精一杯、お参りしてきました。
神社説明書から創建について主な部分です。
走水の地名はすでに古事記(712年)や日本書紀(720年)の中に表れています。
大和朝廷時代に上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、この地方に古東海道が
通じておりました。走水神社の祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)とその后、弟橘媛命(オトタチ
バナヒメノミコト)の二柱です。神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録
や社宝が焼失してしまったのでわかりません。伝説では、景行天皇の即位40年(110年)東夷征討
の命を受けた大和武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり村民に「冠」を賜りましたので、冠を
石櫃に納めてその上に社殿を建て、大和武尊を祭ったことに始まると伝えています。
日本武尊が渡海の際、海上が荒れ、いまにも身が沈みそうになりました。海神の怒りであろうと考え
られた弟橘媛命は
~さねさしさがむのをぬにもゆるひの ほなかにたちてとひしきみはも~
の歌を残し日本武尊に代わって海に身を投じ風波を鎮めました。
弟橘姫尊はもと旗山崎に橘神社として祭られていましたが、その地が軍用地に買収されたため、
明治42年、この神社に祭られました。
歌について、もう少し詳しくウィキペディア(弟橘媛)より、
~さねさし 相武(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも~
~佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母~
「相模の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくださった貴方」という意味である。
相模の国造にだまされ、火攻めにあった時のことを言っている。『古事記』にのみ存在する歌である。
尊に対する感謝の気持ちがよく表れている。
尊の「吾妻はや」という言葉とあわせると、ふたりは固い絆で結ばれていたことがわかる。
{媛を忘れられない尊は、『日本書紀』によれば碓日嶺(うすひのみね。現在の碓氷峠)、『古事記』によれば神奈川県の足柄の坂本(足柄山)において、「吾妻はや」(我が妻よ)と嘆いた。日本の東部を「あずま」と呼ぶのは、この故事にちなむという。いわゆる地名起源説話である}
歌の訳についてもうひとつ、
≪あの相模国の人里離れた野原で、火に囲まれ、ぼうぼうと燃える炎の中で、わたしの名を呼んでくださったあなたですもの≫【古事記:梅原猛 学研M文庫134頁】
他にも訳があるようです。やさしい感じのするものがほとんどみたいです。
御本殿の横から丘に登る素敵な道がありました。
(写真はありませんが、御本殿の後ろに回ると水の神様カッパ様がお祀りされていました)
途中の展望スペースはとてもきれいな景色でした。
この道の先には・・・。
素敵なお社がありました。
諏訪神社 神明社 須賀神社です。素敵な場所です。
こころを込めてお参り。そして下山。
今日もこの場所にこれたことに感謝。
大和武尊さま、弟橘媛命さま、ありがとうございます。
このあとは観音崎付近を散歩
海とそらがとってもきれいで心地よかったです。
三浦半島は歴史がいっぱい詰まった場所です。
今日もこの場所に来れたことに感謝の一日でした。
(今日は、やっとこの場所に来れた、お会いできたという感じがして、清々しい気持ちになりました)
今日も、たくさんの人にやさしい光が届きますように。
~今日は長くなりましたが、お付き合いいただきありがとうございます。
走水神社へは、京急、馬堀海岸駅からバス観音崎行きで走水神社下車すぐです。~
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