SSブログ

三つ鱗と毘と美 [パステルアート]

小田原北条氏と上杉謙信をイメージして美で綴りました(^^♪
三つ鱗と毘.jpg

IMG_20220723_102511_2.jpg
小田原北条氏をイメージして描きました!
小田原の北条さんは、赤と黄色と緑のイメージが強く感じました。青や紫は少ない感じ。
でも少し入ってます(勝手に感じてるだけです)。良くも悪くも、戦うより和睦のイメージ
が強く感じるのと、滅びてなお、後世に小田原の歴史を残そうとする使命感のようなもの
が入り交じった色彩感を表現しました。



IMG_20220723_102802.jpg
こちらは、上杉謙信をイメージして描きました。
調和を求むも、戦いの宿命を背負った人物。
下地には、きれいな調和した色相環がありますが、前面には、紫と青が強い感じの
色彩感です。上杉謙信は、小田原とも関係が深い人です。小田原攻めは有名ですが、
謙信のもとには、同盟を結んだ際の証として、北条氏康の子で氏政の弟でもある人物
(北条三郎)が、謙信から、自分の以前の名である景虎の名を与えられ養子として迎え
入れられています。

この方は、上杉謙信亡き後、家督争いで上杉景勝に敗れ、小田原に帰る途中で、味方の
裏切りにあい自害した悲劇の方です(御館の乱)。もし勝っていたら、小田原合戦は、
どう迎えたのだろうか?とか。歴史は、不思議です。

実は、小田原市と上越市は、他にも、堀氏(小田原合戦参加)や稲葉氏(小田原城主)
と何かと関係が深い間柄です。春日山城(景虎)は、その後、直江津の福島城(堀氏)、
そして高田城(稲葉氏)と移って行きますが、それらのお城全てに小田原と関係ある方
が関わっています。()内の方が、そのお城に関わっています。
上杉氏の後に春日山城に入った堀氏が、直江津の福島城にお城を移しましたが、その後、
堀氏に変わり松平忠輝が福島城に入り、程なくして高田城に移っています。
今後、いろいろ調べてみようと思ってます。
 
*上越市立博物館によると、高田城三重櫓復元の際に、規模は、稲葉正通時代の「高田城図間尺」にある数値とほぼ同様で、外観は松平光長時代の「本丸御殿絵図」を参考としました、とのことです。

いつもご覧いただき、ありがとうございます。      
コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。