米騒動発祥の地他、魚津巡り [富山・新潟]
先日、魚津に帰省した際に、米騒動発祥の地と、魚津城跡・魚津歴史民俗博物館、横山源之助顕彰碑を巡ってきました。
米騒動発祥の地(富山県魚津市)。旧十二銀行倉庫。当時の倉庫が残ってます。
1枚目(町側正面)、2枚目(海側)
海側の方からみるより正面の町側から見る方が、時代を感じさせてくれます。
シベリア出兵を目前に米商人・地主らの投機が米価高騰をあおった結果であったと言われています。それだけでなく、歩いてみると、ここは今と違い当時の中心地で町役場もあって、インパクトがあったのだと感じました。田舎の漁村のイメージが強いですが、当時の郡の中心地。郡庁舎、警察署。町役場や学校といった公共施設がそばに、多数あった場所。典型的な郡都の名残がある場所です。一揆・暴動のイメージが強いけど、交渉的側面が強いのかなと感じました。現在は、町の中心地ではありませんが、今でも、県合同庁舎、裁判所、検察庁があります。ちなみに、魚津城があった付近です。
時の内閣(寺内内閣)を総辞職に追い込んだ大正7年の米騒動に関するもっとも早い公的機関の記録、新聞、記事等が魚津であることから、魚津市を「米騒動発祥の地」としているとのこと。小田原にいた山県有朋の頭をも散々悩ましたことでしょう。そして、時は、原敬内閣誕生へと繋がっていきました。
*ちなみに「郡都」について。当時は、郡(郡役所・郡長)が、町・村より上の立場でした。町村管理として県に数カ所置かれました。だから当時、その辺りに唯一、国家権力と直結する警察署があったり、県立の旧制中学があったりと、重要な公的機関が集まったりしています。郡長は、県知事が任命し、一般の人々が選んだ人ではありませんでした。魚津町は、米騒動時には、1万5千人もの人口がありました。当時の日本の人口は、5千5百万人程の時代にです。江戸時代以降も魚津城の周辺が重要な場所として、そのまま発展していったようです。
次に魚津城跡にも寄ってみました(現在は、石碑のみです)。旧大町小学校の敷地内にあります。
天正10年、越後の上杉方にとって重要拠点であった魚津城は、越中制圧をもくろむ織田方の軍勢に包囲され、壮絶な戦いが繰り広げられました。が善戦むなしく落城。城将に限らず老若男女が無念の死を遂げました。80日間に及ぶ籠城戦でした。ところが、この悲劇の前日、本能寺で織田信長が自害を遂げていたという場所です。歴史というものは、不思議なものですね。去る者、残るものは、まるで決まっているかのようです。
上杉謙信亡き跡、壮絶な家督争い(御館の乱)で上杉景勝が景虎を破った矢先のことでもあり、戦で勢力が衰えたその隙をついた越中攻めでもありました。上杉にとっては、大事な越中の拠点でした。結果上杉家は、織田、豊臣、徳川と生き残りました。
実は詳しい説明が無いので、車で15分程の天神山の麓にある魚津歴史民俗博物館にも行って来ました。(11月から3月まで休館。月曜休館日)ちょうど企画展「魚津城と松倉城」が開催中で、資料ももらってきました。天神山は、上杉景勝が、魚津城の戦いで布陣した場所です。春日山城が危うくなったので、やむなく撤退していますが。
魚津で育ちましたが、初めて知ることがたくさんありました。
春日山近辺も行かないと全てが揃わない感じになりました!御館の乱のことも知りたいし。景勝さんと争って破れた景虎さんは、小田原北条氏から養子になった人。不思議と小田原は、いろいろ繋がっています。何か日本の成り立ちまで遡りそうな感じです。いろいろ勉強になりました。芸術の方で、富山市のガラスの美術館も行きたいのですけど、それは、また今度で。
最後は、新金屋公園にある横山源之助の顕彰碑です。
魚津の新金屋は、「日本の下層社会」で有名な横山源之助の出身地です。ざっくり言うと明治時代の庶民の苦しい生活状況を記録した本です。政府とは対極にある人々の暮らしの記録です。米騒動発祥の場所にも、横山源之助顕彰碑がありますが、元は新金屋公園にあったものです。ここは、ずっと来たかった場所です。
私自身、45年程前に、この近くの幼稚園に通って、この公園で運動会もした場所です。でも横山源之助の出身地なんて最近になって知りました。日本の歩んできた道を記した人です。本人は、運動家というわけでもなく晩年は、生活も苦しかったようです。44才で亡くなります。社会のためというよりは、自分のために生きた人という印象です。苦労人で人間臭い人です。そこが、人を惹きつけるのかもしれません。
これで、今回廻りたいところは、全て廻れました!みなさんも、魚津に来られた際は、巡ってみてくださいね。意外と日本の太い記録に巡り会えます。漁港辺りで美味しいお魚でも食べながら。
いろいろと、面白くもあり、勉強にもなり、魚津再発見が出来た1週間でした。
いつもご覧いただき、ありがとうございます。
米騒動発祥の地(富山県魚津市)。旧十二銀行倉庫。当時の倉庫が残ってます。
1枚目(町側正面)、2枚目(海側)
海側の方からみるより正面の町側から見る方が、時代を感じさせてくれます。
シベリア出兵を目前に米商人・地主らの投機が米価高騰をあおった結果であったと言われています。それだけでなく、歩いてみると、ここは今と違い当時の中心地で町役場もあって、インパクトがあったのだと感じました。田舎の漁村のイメージが強いですが、当時の郡の中心地。郡庁舎、警察署。町役場や学校といった公共施設がそばに、多数あった場所。典型的な郡都の名残がある場所です。一揆・暴動のイメージが強いけど、交渉的側面が強いのかなと感じました。現在は、町の中心地ではありませんが、今でも、県合同庁舎、裁判所、検察庁があります。ちなみに、魚津城があった付近です。
時の内閣(寺内内閣)を総辞職に追い込んだ大正7年の米騒動に関するもっとも早い公的機関の記録、新聞、記事等が魚津であることから、魚津市を「米騒動発祥の地」としているとのこと。小田原にいた山県有朋の頭をも散々悩ましたことでしょう。そして、時は、原敬内閣誕生へと繋がっていきました。
*ちなみに「郡都」について。当時は、郡(郡役所・郡長)が、町・村より上の立場でした。町村管理として県に数カ所置かれました。だから当時、その辺りに唯一、国家権力と直結する警察署があったり、県立の旧制中学があったりと、重要な公的機関が集まったりしています。郡長は、県知事が任命し、一般の人々が選んだ人ではありませんでした。魚津町は、米騒動時には、1万5千人もの人口がありました。当時の日本の人口は、5千5百万人程の時代にです。江戸時代以降も魚津城の周辺が重要な場所として、そのまま発展していったようです。
次に魚津城跡にも寄ってみました(現在は、石碑のみです)。旧大町小学校の敷地内にあります。
天正10年、越後の上杉方にとって重要拠点であった魚津城は、越中制圧をもくろむ織田方の軍勢に包囲され、壮絶な戦いが繰り広げられました。が善戦むなしく落城。城将に限らず老若男女が無念の死を遂げました。80日間に及ぶ籠城戦でした。ところが、この悲劇の前日、本能寺で織田信長が自害を遂げていたという場所です。歴史というものは、不思議なものですね。去る者、残るものは、まるで決まっているかのようです。
上杉謙信亡き跡、壮絶な家督争い(御館の乱)で上杉景勝が景虎を破った矢先のことでもあり、戦で勢力が衰えたその隙をついた越中攻めでもありました。上杉にとっては、大事な越中の拠点でした。結果上杉家は、織田、豊臣、徳川と生き残りました。
実は詳しい説明が無いので、車で15分程の天神山の麓にある魚津歴史民俗博物館にも行って来ました。(11月から3月まで休館。月曜休館日)ちょうど企画展「魚津城と松倉城」が開催中で、資料ももらってきました。天神山は、上杉景勝が、魚津城の戦いで布陣した場所です。春日山城が危うくなったので、やむなく撤退していますが。
魚津で育ちましたが、初めて知ることがたくさんありました。
春日山近辺も行かないと全てが揃わない感じになりました!御館の乱のことも知りたいし。景勝さんと争って破れた景虎さんは、小田原北条氏から養子になった人。不思議と小田原は、いろいろ繋がっています。何か日本の成り立ちまで遡りそうな感じです。いろいろ勉強になりました。芸術の方で、富山市のガラスの美術館も行きたいのですけど、それは、また今度で。
最後は、新金屋公園にある横山源之助の顕彰碑です。
魚津の新金屋は、「日本の下層社会」で有名な横山源之助の出身地です。ざっくり言うと明治時代の庶民の苦しい生活状況を記録した本です。政府とは対極にある人々の暮らしの記録です。米騒動発祥の場所にも、横山源之助顕彰碑がありますが、元は新金屋公園にあったものです。ここは、ずっと来たかった場所です。
私自身、45年程前に、この近くの幼稚園に通って、この公園で運動会もした場所です。でも横山源之助の出身地なんて最近になって知りました。日本の歩んできた道を記した人です。本人は、運動家というわけでもなく晩年は、生活も苦しかったようです。44才で亡くなります。社会のためというよりは、自分のために生きた人という印象です。苦労人で人間臭い人です。そこが、人を惹きつけるのかもしれません。
これで、今回廻りたいところは、全て廻れました!みなさんも、魚津に来られた際は、巡ってみてくださいね。意外と日本の太い記録に巡り会えます。漁港辺りで美味しいお魚でも食べながら。
いろいろと、面白くもあり、勉強にもなり、魚津再発見が出来た1週間でした。
いつもご覧いただき、ありがとうございます。
タグ:米騒動他魚津巡り
2022-08-25 10:50
コメント(0)
コメント 0