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春日山から御館 [富山・新潟]

春日山城の続きです。やっと来ました!ここが御館(おたて)です。
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直江津駅から歩いて10分ほどです。看板以外は、ただの公園です。ちょっと分かりづらい場所にあります。その昔は、看板にもありましたが、かなり広かったようです。ここは、北条氏康公に、攻められ逃げて来た関東管領、上杉憲政公のために、謙信公が建てた館です。上杉の姓とその職を謙信公に譲り、ここで過ごしました。 
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御館の乱とは、謙信公が後継ぎを決めないまま亡くなってしまったために、上杉景虎(北条氏康公の息子で氏政公の弟、越相同盟が元で、養子となる)さんと上杉景勝さんという二人の養子の間で起こった壮絶な家督争いです。謙信公には子がいませんでした。  
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景勝さんは、謙信公の軍事拠点の春日山城を、景虎さんは、政治拠点の御館を占領して戦ったようです。壮絶な戦の上、景勝さんの総攻撃を受けて、御館は落城。景虎さん有利の時もあったようですが。景虎さんは、妙高市の鮫が尾城で自害。2年に渡り、越後の国を二分した争いは幕を閉じました。血に刻まれているともいうべく上杉家の争いです。景虎さんは、小田原に逃げ帰る途中に味方に裏切られて自害したと言われているようです。この時代は、味方と敵はすぐ入れ替わります。生き残り競争が壮絶ですから。

勝った景勝さんも、上杉として勢力がかなりダメージを負いました。そこを織田信長勢が狙って、一気に越中に進行してきました。こちらも壮絶で有名な魚津城の戦いです。12人の武将が自害した戦いです。しかし、その前日に織田信長が明智光秀に打たれ亡くなっていました。織田勢は、その後退散。景勝公は、生き残り豊田政権では5大老にまで、上り詰めます。結果、小田原北条家は、滅亡します。

歴史は不思議です。強い者が勝つのではなく、流れには抗えない何かがあるようです。それぞれに必至に生き抜いた人々がいて結果、次の時代が訪れ、今が存在する。ダイナミズムとしか言い様がないというか。

私の願望だけど、もっと小田原市が上杉景虎(北条三郎)さんを暖かく迎えてあげて欲しいなあ。奥さんと一緒に。上杉家と北条家のために頑張ったんだから。気持ちとして何かあったらいいなあって。小田原城に記念碑があったりとか。結構、景虎さんファンいますよ。是非ともお願いします。たくさんの人に知ってもらいたい日本の歴史だと思います。おかえりの言葉とともに。

あと、群馬の藤岡市の上杉憲政公のように、上越の御館に小田原市も友好の証として記念碑建て欲しいなあ。景虎さんは、表も裏も含めて本当の歴史の繋がりを教えてくれる武将の一人だと思います。何かすでにあったり、検討中でしたら、ごめんなさい。次回行くとき楽しみにしています。 

ちなみに上杉憲政公は、北条氏康公のせいで、越後に追いやられたのに、その氏康公の息子景虎さんのために春日山城に和睦交渉に行く途中に同じ上杉に殺害されてしまいます。なんか切なくもあり、運命でもあり。 

歴史に、もしはありませんが、でも、景虎さんが勝っていたら、北条氏はどうだったのだろうかとも考えると、別の日本があったかもしれないと思ってしまいます。

御館に来てよかったです。いろいろ、この国について想いを巡らすことが出来ました。
三つ鱗と毘.jpg
最後まで、お付き合いいただき、ありがとうございました。

いつもご覧いただき、ありがとうございます。

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